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クリア後の“空っぽ”には名前がついた――終わって悲しかったゲームを語るスレと、17項目の尺度

投稿: 2026/08/05by tobariware6分で読めますAI下書き
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クリアした後に「終わっちゃって悲しい」と思ったゲームを教えてほしい——そんなお題の掲示板スレッドが伸びていた。挙がる名前は20年以上前のRPGから近年のオープンワールドまでバラバラなのに、書き込みの温度はほとんど揃っている。面白かった、ではなく、終わってしまった、が先に来るんだにゃ。

名前を挙げる前に、みんな「終わってしまった」と書いていた

まず目につくのは、作品名を一行だけ置いて去っていく書き込みの多さ。説明を足すと野暮になる、という了解が働いているように見える。

戦場のヴァルキュリア

DOD系とニーア。ほんと救われねぇシナリオ

そこに、少しだけ理由を添える声が混ざる。

ドラクエ7。あれだけ長く遊んだのに、終わったら虚無だった

クロノクロス。エンディングの曲が、とにかく物悲しかった

面白いのは、悲しさの向き先が「物語の結末」だけではないところ。むしろ多かったのは、結末の内容ではなく“世界から追い出されたこと”への未練だった。

ico。スイカのエンドの、その後が観たい

ワンダ、16体はちょっと物足りなかった

「その後が観たい」「物足りない」。不満の形をしているけれど、言っている中身は同じで、もっとあの場所にいたかった、という話にゃ。だから「大神、アマ公の続編まだか」と続編を求める声と、「ポケダンが挙がってないのはおかしい」と欠けている名前を補いにくる声が、同じ流れの中に並ぶことになる。

一方で、しれっと水を差す書き込みもあった。

小さい頃は、何をやってもそう感じてた

これはこれで鋭い指摘で、作品の出来ではなく受け手側の条件——時間の余裕、初めて触れる体験の density、その時期の生活——が効いている可能性を突いている。実際、後述する研究でもこの現象は「作品の質」より「プレイヤー側の心理的な特性」との結びつきが強く出ている。

その空虚感には、17項目の尺度がついた

こういう話は長らく「わかる人にはわかる感覚」として扱われてきたけれど、ここ数年で学術側が正面から測りにいっている。

出発点になったのは、Piotr Klimczyk による質的研究(Cyberpsychology 誌、2023年)。『Disco Elysium』や Telltale の『The Walking Dead』を遊んだ13〜42歳の35名にインタビューし、プレイヤーが語る“ゲーム後の空虚感”を整理したものだ。そこで浮かんだ要素が、他のメディアで楽しさを感じられなくなる「メディア・アンヘドニア」、登場人物への一方通行の愛着、そして「あの1周目はもう二度と来ない」という認識だった(Cyberpsychology, Vol.17 No.2)。

そして2026年5月、この現象を数値で測る尺度が学術誌 *Current Psychology* に載った。SWPS大学(ポーランド)の Kamil Janowicz と、前述の Klimczyk による共同研究で、名前はそのまま「Post-Game Depression Scale(P-GDS)」。ほぼ毎日ゲームを遊ぶ層を対象に210名・163名の2つの調査を行い、17項目・4下位尺度の形にまとめている(Current Psychology 掲載論文)。

  • ゲームに関する反芻思考:終わった後も頭の中で作品のことを反復してしまう
  • 体験の終わりのつらさ:エンディングそのものが心理的な負荷になる
  • 再プレイへの衝動:もう一度あそこへ戻らないと収まらない
  • メディア・アンヘドニア:他の作品や映像に手が伸びなくなる

報告が最も多かったのは1つ目の反芻思考で、逆に最も軽いのがメディア・アンヘドニアだった。つまり大半の人にとっては「しばらく頭から離れない」で済み、「他のものが一切楽しめない」まで行く例は限られる、ということになる。そして尺度の強さは、一般的な抑うつ傾向・反芻しやすさ・感情処理の難しさと正の相関を示し、主観的な幸福感とは逆向きに動いた。ジャンル別ではRPGが最も強く出ている。キャラクターの育成や選択を通してプレイヤー自身の関与が深くなるぶん、切り離すのに時間がかかるという読み筋にゃ。

ただし断っておくと、この2本の研究はどちらも横断的な調査で、因果の向きまでは言えない。ゲームが落ち込みを作ったのか、落ち込みやすい人がこの感覚を強く報告するのか、そこは分かれていない。スレッドで挙がっている作品名は「そう感じた人がいる」という事実であって、「その作品が人を落ち込ませる」という話ではないので、そこは分けて読みたいところ。

ラスダンで手が止まるのも、2周目に入るのも、同じ話だった

スレッドの中で、個人的にいちばん引っかかったのがこの2つの書き込みだった。

ラスダンまで来ると、いつも放置しちゃう癖がある

スカイウォードソード、2周目しよっかなー

止まる側と、戻る側。正反対の行動に見えて、動機の根はたぶん同じところにある。前者は終わりを来させないための先延ばしで、後者は終わった世界へ再入場するための手続き。P-GDS の4本目の柱に「再プレイへの衝動」が独立した下位尺度として立っていること自体が、これが個人の癖ではなく、一定の人数に共有された反応であることを示している。

とはいえ、2周目が万能の処方箋になるわけでもないらしい。Klimczyk の質的研究では「1周目と同じ体験は二度と手に入らない」という認識そのものが、空虚感を構成する要素として挙がっていた。周回で救われるのは、周回に別の意味が用意されている作品——真エンドが控えている、視点が入れ替わる、引き継ぎで見え方が変わる——に限られる、という整理はそれなりに腑に落ちる。スレッドで「ペルソナ4は2周した」と書ける人と、『ico』の「その後が観たい」としか書けない人の差は、たぶんそこにあるにゃ。

同じ研究では、和らげる側の要因も2つ挙がっている。ひとつは、その体験を通して自分が何かを得たと感じられること。もうひとつは、納得のいく結末が用意されていること。裏を返せば、投げっぱなしで終わる物語ほど尾を引きやすい、ということでもある。「ほんと救われねぇシナリオ」という書き込みが、称賛と恨み言のちょうど中間の響きを持っていたのは、たぶん偶然じゃない。

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